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徳川家
徳川家康 とくがわ いえやす (1542~1616) 徳川家
徳川幕府初代将軍。三英傑のひとり。松平広忠の子。幼名は竹千代。幼少の頃の松平家(のち徳川)は弱小であったため、父・広忠によって今川家の人質に出されるが、護衛役であった義母の父・戸田康光の裏切りによって・織田信秀(信長の父)に引き渡され一時織田家の人質となる。のち人質交換によって今川家の人質となり、桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを契機に今川家より独立を果たす。その後も家臣の扱いと変わらない織田信長との同盟、そして、信長の命(近年は家康自身の命とも)による嫡男・信康の切腹と正室・築山殿の断罪、本能寺の変後は豊臣秀吉への臣従と住み慣れた東海から関東への移封と苦労した。しかし、その苦労を結束の固い家臣団とともに乗り越えるたびに勢力を伸ばし、豊臣政権下では五大老の筆頭となり250万石の大大名にまでのし上がった。秀吉の死後、豊臣家を守ろうとする石田三成と対立し、三成を関ヶ原の戦いで破ると事実上天下人となり、1603年に征夷大将軍に就いて江戸に幕府を開いた。その後、在位わずか2年で将軍職を子の秀忠に譲るが、大御所として駿府城で実権を握り続け、1614年の大坂冬の陣、15年の夏の陣で豊臣秀頼(秀吉の子)と生母・淀殿を自害に追い込んで豊臣家を滅ぼし、徳川家の天下を盤石なものとした。夏の陣の翌年1616年に死去。享年75。遺骸は久能山に一旦葬られたのち日光に移された。死因は鯛の天ぷらによる食中毒とされてきたが、近年では胃癌というのが定説となりつつある。
<遺訓>
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、心にのぞみおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害其の身に至る。己を責めて人をせむるな、
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
徳川秀忠 とくがわ ひでただ (1579~1632) 徳川家
徳川幕府2代将軍。家康の三男。3代将軍・家光の父。正室は織田信長の姪・お江(崇源院)。母は側室だが、家康最愛の女性といわれる西郷局。長兄・信康は早世、次兄・秀康は他家の養子となっていたため家康の跡継ぎになる。戦国武将としての戦闘指揮能力は低く、関ヶ原の戦いでは3万8千の軍勢を率いながらも遅参するという失態を演じ、その汚名を注ぐために臨んだ大坂冬の陣では、逆に10万という大軍勢を江戸から伏見まで17日で到達するという速さをみせるも、戦えないほど兵も軍馬も疲れてさせてしまい、また家康の怒りを買ってしまったという。それでも跡継ぎとなったのは、家康が秀忠を治世の名君となりうる人物だと見込んでいたからであり、その期待通り、家康の死後、戦乱から文治へ向かう時代の中で家康の偉大な業績を引き継ぎ幕府の基盤をさらに固めた。
徳川義直 とくがわ よしなお (1601~1650) 徳川家
家康の九男。徳川御三家・尾張徳川家の始祖。1603年に甲斐藩主となり25万石を拝領するが、幼少であったため、甲斐国には赴かず、政務は家老で守役でもあった平岩親吉らが受け持った。1607年に松平忠吉が亡くなると、遺領を受け継いで尾張清州藩主となり、名古屋城が築城されると本拠地を移した。しかし、この時点ではまだ尾張には入国していない。その後、大坂冬の陣で初陣を果たし、夏の陣にも参加。家康が亡くなった1616年に尾張に入国し、名実ともに尾張62万石の初代藩主となった。
徳川頼宣 とくがわ よりのぶ (1602~1671) 徳川家
家康の十男。徳川御三家・紀州徳川家の始祖。1602年に水戸藩主となり20万石を拝領するが、幼少であったため、水戸には赴いていない。1609年、駿府藩50万石に転封となり、駿府城を隠居城としていた家康と共に過ごした。1611年に家康と豊臣秀頼が京都で会見した際には、秀頼の安全を確保するための人質として、兄・義直と共に加藤清正に預けられた。大坂冬の陣で初陣、夏の陣では後詰として参加。その後、1619年に安芸へ転封となった浅野家に代わって55万石で和歌山に入り、紀州徳川家を誕生させた。
徳川頼房 とくがわ よりふさ (1603~1661) 徳川家
家康の十一男。徳川御三家・水戸徳川家の始祖。「水戸黄門」で知られる徳川光圀の父。1606年、わずか3歳で常陸下妻10万石を与えられ、1609年に兄・頼宣が水戸から駿河に転封となると、水戸25万石(のち28万石)を与えられ水戸藩主となった。大坂の陣では駿府城の守備として留め置かれ、豊臣家が滅亡してからもほとんど水戸には戻らず江戸に常住した。そのため、歴代水戸藩主は基本的に江戸常住が慣例となった。
松平忠明 まつだいら ただあきら (1583~1644) 徳川家
奥平信昌の四男。母は徳川家康の長女・亀姫。家康の養子となり松平姓を許される。関ヶ原の戦いには父・信昌と共に参加。戦後、三河作手に1万7千石、のち伊勢亀山5万石を得る。その後は大坂の陣に参加。冬の陣では急逝した兄・忠政(加納藩主)の軍勢を率い、夏の陣でも忠政の軍勢と美濃の諸大名を率いた。大坂の陣後は摂津大坂藩10万石を得て大坂の復興に尽力、最後は播磨姫路藩18万石を得て井伊直孝と共に3代将軍・家光の後見人となった。大坂復興時代に「道頓堀」を名付けた人物としても知られる。
松平清康 まつだいら きよやす (1511~1535) 徳川家
松平家7代当主。広忠の父。家康の祖父。名君の誉れ高く、父・信忠の時代に混乱した家中をまとめると、瞬く間に西三河を手中におさめた。その後、東三河の攻略にも乗り出し、尾張の織田信秀とも争いながら勢力を拡大して松平家の全盛期を画する。しかし、1535年に尾張進出のために入った守山城で重臣・阿部定吉に謀反の噂が流れ、その騒動の中、馬が暴れて城内が混乱したのを父が粛清されたと早合点した定吉の子・弥七郎によって殺されてしまった。この事件は「守山崩れ」と呼ばれ、これを機に松平家は苦難の時代を迎える。
松平忠輝 まつだいら ただてる (1592~1683) 徳川家
家康の六男。幼少から家康には冷遇されていたという。豊臣秀吉の死後、伊達政宗との関係強化のために政宗の長女・五郎八姫と婚約するが、石田三成ら奉行衆の反発で、うまく事が運べず、正式に結婚するのは1606年、12万石で信濃川中島の藩主になってからだった。その後、越後高田に75万石を得て北陸の要となる。しかし、普段からの粗暴な振る舞いで家康や秀忠には相変わらず疎まれ、大阪の夏の陣での出遅れと、秀忠の旗本を殺害したのを咎められ、家康死後すぐに秀忠によって改易された。その後、五郎八姫とは離縁となり、各地を転々としたのち、最期は信濃諏訪家に預けられ92歳で亡くなった。
松平忠吉 まつだいら ただよし (1580~1607) 徳川家
家康の四男。母は家康最愛の女性・西郷局で秀忠の同母弟にあたる。正室は井伊直政の娘。生まれてすぐに跡継ぎがいなくなった東条松平家を継ぎ、関東移封後は武蔵忍城主となり10万石を拝領した。初陣となった関ヶ原の戦いでは舅・井伊直政とともに先陣をきり、戦いの後半では島津勢と激戦を繰り広げた。戦後、尾張清州52万石の藩主となるが、関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因と思われる病で亡くなった。
松平信康 まつだいら のぶやす (1559~1579) 徳川家
家康の長男。母は正室・築山殿。父・家康が織田信長と同盟を結んだ際に信長の娘・徳姫を娶った。家康が、浜松城に移ると、岡崎城を任され、岡崎衆を率いて長篠の戦いなどで活躍する。勇猛で人望があり、将来を期待されたが、母・築山殿が武田家との内通を疑われると、自身も内通を疑われ、織田信長の意見を聞き入れた家康の命で切腹した。(近年では、家康と信康の対立があったともいわれている)
松平広忠 まつだいら ひろただ (1526~1549) 徳川家
松平家8代当主。家康の父。父・清康の急死によりわずか10歳で当主となるが、実権を一族の松平信定に握られ一時伊勢に逃れる。その後、今川義元の助力を得て岡崎城に復帰、そのため今川家に臣従することになり、子の竹千代(のちの徳川家康)を人質に出すことになった。しかし、竹千代は護送中、警護につけた戸田康光の裏切りにより織田信秀に奪われてしまう。それでも織田家につくことはなく、今川義元に従ったため、信秀が放った刺客・岩松八弥に殺された(死因には諸説あり)。
結城秀康 ゆうき ひでやす (1574~1607) 徳川家
家康の次男。母は側室・於万の方。小牧・長久手の戦い後、和睦条件の人質して豊臣秀吉に送られ秀吉の養子となった。その後、秀吉に鶴松が生まれ、秀吉の後継者に定められると、他の養子と同じく他家に出され、下野国の名家・結城家の当主・晴朝の姪を娶って結城家を継ぎ、11万石を得た。関ヶ原の戦いでは上杉家の備えとして関東に残り、戦後、越前北ノ庄67万石を得て松平姓に復帰、越前北ノ庄(福井)藩主となる。武勇に優れ剛胆な性格であったが、粗暴な振る舞いが多く、幼少より家康には嫌われていたといわれる。しかし、その反面、礼節を重んじた人物とも伝わっている。天下三名槍のひとつ・「御手杵」を所有していたことでも知られる。
松平忠直 まつだいら ただなお (1595~1650) 徳川家
結城秀康の長男。越前北ノ庄(福井)藩主。父・秀康の死により家督を継ぎ、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・勝姫を正室に迎えた。大阪夏の陣では真田幸村を討ち取るなど活躍したが、論功行賞の不満から次第に幕府に対して反抗的な態度をとるようになり、終いには勝姫の殺害を企てるなど乱行が家臣の手に負えず、最後は幕府の命により隠居させられ豊後国へ配流となった。
松平忠昌 まつだいら ただまさ (1598~1645) 徳川家
結城秀康の次男。忠直の同母弟。父・秀康の死後、越前北ノ庄(福井)藩主となった兄・忠直に従って大阪夏の陣で活躍し、常陸下妻3万石の藩主となる。その後、信濃松代12万石を経て、1618年に改易となった松平忠輝に代わって越後高田25万石の藩主となる。1623年に兄・忠直が不行跡を理由に配流となると、越前北ノ庄(福井)藩主となった。北ノ庄の「北」の字が敗北を連想させるとして、「福井」と地名を改めたことでも知られる。
松平直政 まつだいら なおまさ (1601~1666) 徳川家
結城秀康の三男。父・秀康の死後、越前北ノ庄(福井)藩主となった異母兄・忠直に従って大坂冬の陣・夏の陣で真田幸村と戦って活躍し、忠直の領内に1万石を得た。1623年、忠直が徳川秀忠によって隠居(のち配流)させられると、越前大野5万石を拝領。その後、信濃松本7万石を経て出雲松江18万5千石の大名へと出世した。キリシタンを厳しく取り締まったことでも知られる。
松平家忠 まつだいら いえただ (1555~1600) 徳川家
松平家3代・信光の七男・忠景から分家した深溝松平家4代当主。深溝松平家は代々松平宗家に仕え、家忠も宗家9代当主にあたる家康に仕えた。父と共に参加した長篠の戦いの前哨戦、鳶ヶ巣山砦の奇襲で父が討死したため家督を継ぐ。1575年から94年の17年間、日記をつけており、『家忠日記』として貴重な史料となっている。1600年、関ヶ原の戦いで、鳥居元忠と共に伏見城の守備につき討死した。家督は嫡男・忠利が継いだ。日記の内容から土木事業に長け、連歌や茶の湯を楽しんだ文化人でもあったことが窺える。
天方通綱 あまがた みちつな (?~?) 徳川家
遠江天方城主・天方通興の子。父・通興は今川義元に仕えたが、桶狭間の戦いで義元が討死すると石川数正を通して徳川家康に仕えたため、通綱も家康に仕えた。1579年、家康の長男・信康が武田家との内通を疑われ切腹となると、介錯役となった服部半蔵(正成)に同行し検視役をつとめるが半蔵が任に堪えず介錯できなかったため代わりに介錯をした。その後、信康介錯を悔い出奔。高野山で隠棲するが、のちに結城秀康に召しだされ家臣となった。
天野康景 あまの やすかげ (1537~1613) 徳川家
徳川家臣。三河三奉行のひとり。幼少のころから家康に仕え、家康がまだ竹千代と名乗っていたとき、織田信秀に誘拐された際も側にいた。三河一向一揆のときも宗門でありながら、家康のために戦い、その後の主だった戦でも武功を挙げた。関ヶ原の戦い後、駿河・興国寺城を一万石で与えられる。1607年、築城ための木材を盗まれ、その賊を家臣が斬ったところ、賊が天領の農民だったため、家臣の引き渡しを求められるが、これ拒否して出奔。のち小田原の西念寺に蟄居となり、天野家は改易となった。
安藤直次 あんどう なおつぐ (1555~1635) 徳川家
徳川家臣。幼少の頃から家康に仕え、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦いに参加し、関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍した。家康が将軍職を秀忠に譲って大御所となると、本多正純、成瀬正成らと共に家康の側近として幕政に参与した。大坂の陣では家康の十男・頼宣の附家老として参加し、冬の陣後の大坂城総堀の埋め立てを正純、正成と共に指揮した。頼宣が和歌山へ移るとそれに従い3万8千石を得た。頼宣の信頼厚く、頼宣に「自分が大名でいれるのは直次のお陰である」と感謝された。
井伊直政 いい なおまさ (1561~1602) 徳川家
徳川家臣。徳川三傑、徳川四天王のひとり。井伊直親の子。幼名は虎松。2歳のときに父・直親が内通の疑いで今川氏真に殺されたため、直親の従姪・直虎に引き取られ育てられた。その後、徳川家臣・松下清景の養子時代を経て徳川家康に謁見し、名を万千代と改めて小姓として仕え始める。16歳のとき、武田家との戦いで初陣を果たし、武田家滅亡後に養母・直虎の死によって正式に家督を継いで直政と名乗った。天正壬午の乱では北条家との講和交渉で活躍。軍事面では滅んだ武田家の精鋭部隊「赤備え」を継承して小牧・長久手の戦いなどで活躍し、「井伊の赤鬼」と恐れられた。それらの功で関東移封の際には、四天王の中で最高の12万石を得ている。関ヶ原の戦いでは娘婿・松平忠吉とともに先陣をきり、島津勢と激戦を繰り広げ島津豊久を討ち取った。戦後は、近江佐和山に18万石を得るが、関ヶ原で受けた戦場傷が悪化して1年半後に亡くなった。
井伊直勝 いい なおかつ (1590~1662) 徳川家
直政の長男。初名は直継、のちに直勝と改名した。父の死後、家督を継ぎ、家老・木俣守勝の補佐を受けて彦根城を築城した。しかし、大坂冬の陣後、病弱(諸説あり)を理由に、徳川家康の命で家督を異母弟・直孝に譲ることになり、井伊家の所領うち上野国・安中3万石を分知され安中初代藩主となる。その後、若くして隠居し、子・直好の転封先、遠江掛川で亡くなった。病弱といわれながら、結果、直孝より長生きした。
井伊直孝 いい なおたか (1590~1659) 徳川家
直政の次男。彦根2代藩主。父の死後、家督は異母兄・直継(直勝)が継いだため、徳川秀忠の近くに仕えたが、大阪冬の陣の際に、病弱(諸説あり)な直継に代わって井伊家の大将をつとめ、しばらくして徳川家康の命により正式に井伊宗家の家督を継ぐ。大坂夏の陣では藤堂高虎と共に先鋒として活躍し「井伊の赤牛」の異名をとった。彦根藩主になってからも秀忠の信頼厚く、秀忠臨終の際には枕元に呼ばれて家光の後見を頼まれ、この役職がのちに大老と呼ばれるようになった。
奥山六左衛門 おくやま ろくざえもん (?~1629) 井伊家
井伊家臣。諱は朝忠。奥山家は井伊家の庶流。桶狭間の戦い以降、没落していく井伊家を支えた忠臣。井伊直政の母は叔母にあたる(姉弟とも)。井伊直親が、徳川家康との内通を疑われ、今川氏真に謀殺されると、同じく命を狙われた直親の子・虎松(直政)を鳳来寺に逃亡させた。直政が、家康に仕えてからも、これに従い、井伊家の再興に尽力。直政死後も直孝に仕え、大坂の陣後に井伊家が18万石から25万石になると、彦根城を大藩の城にふさわしくするため、総奉行となって改修を担当した。
木俣守勝 きまた もりかつ (1555~1610) 井伊家
井伊家臣。木俣家は松平(徳川)譜代の家柄。幼少から家康に仕えていたが、家族とのいさかいで出奔して明智光秀に仕えた。その後、光秀の元で活躍し、噂を聞きつけた家康が織田信長に懇願したことにより帰参を果たす。天正壬午の乱後に「赤備」を含む武田家旧臣たちの懐柔策を担当し、その統括も任されたことから、武田家旧臣が井伊直政の家臣団に組み込まれると、そのまま直政の与力となった。関東移封後に正式に井伊家臣となり筆頭家老として活躍。直政死後は、まだ若い直継(直政長男)を補佐し、彦根城の築城を担当した。
中野直之 なかの なおゆき (?~1605) 井伊家
井伊家臣。中野直由の子。桶狭間の戦い以降、没落していく井伊家を支えた忠臣。井伊家唯一の遺児・虎松(のちの直政)が徳川家臣・松下清景の養子を経て徳川家康の直臣になった時も、これに従い、井伊家の再興に尽力した。死後、嫡男・三信は井伊宗家(井伊掃部頭家)を継いだ直孝の家老となり、次男・一定も松下家の養子となって井伊家の分家・直勝系(井伊兵部少輔家)の家老となった。
石川数正 いしかわ かずまさ (1533~1592) 徳川家
松平(徳川)家譜代の家臣。酒井忠次とともに若い家康を支え、今川家の人質時代も駿府へ同行した。桶狭間の戦い後、家康が岡崎で独立すると、今川氏真から駿府に留め置かれていた築山殿(家康正室)と信康(家康嫡男)を取り戻すことに成功し、その後、織田信長との清州同盟締結にも貢献して、家康の三河統一後は西三河の筆頭となった。武辺者が多い家臣団の中にあって外交を得意とする貴重な人材であったが、小牧・長久手の戦い後に突如出奔して豊臣秀吉の家臣となり、小田原征伐後に信濃松本に8万石を得た。出奔の原因は小牧・長久手の戦い後の和平交渉で有利な条件を引き出せず、家中から強い非難をあびたためといわれるが、はっきりしたことは分かっていない。
板倉勝重 いたくら かつしげ (1545~1624) 徳川家
徳川家臣。家康に信頼された名奉行。幼少のころに出家し僧となっていたが、父と弟が討死、兄は他家に養子に出ていたため、還俗して家督を継いだ。行政手腕に優れ、1586年に駿府町奉行。関東移封後は関東代官、江戸町奉行、小田原地奉行を兼任した。関ヶ原の戦い後は京都所司代となって京都の治安維持と朝廷、大坂城の豊臣家および西国大名の監視にあたり、大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘名事件や、禁中並公家諸法度の制定に大きく携わった。1620年、子の重宗を京都所司代に推挙して隠居。重宗も勝重と同様、名奉行として名を馳せ、二人の裁定や逸話は「板倉政要」として伝わった。
伊奈忠次 いな ただつぐ (1550~1610) 徳川家
徳川家臣。元服前、父が三河一向一揆に参加したため、出奔したが、長篠の戦いに参加して帰参が叶い、家康の長男・信康に仕えた。しかし、信康が武田家との内通を疑われて切腹となると再び出奔して堺に移り住んだ。本能寺の変が起こると家康の伊賀越えに協力し、再び帰参して家康の近習となる。家康が関東に入府すると、関東代官頭として内政手腕を発揮し、利根川の流れを変える事業に携わるなど、のちに「伊奈流」と呼ばれる治水法を用いて江戸の石高を飛躍的に上昇させ、幕府の基盤づくりに多大な功績を残した。
大久保忠教 おおくぼ ただたか (1560~1639) 徳川家
徳川家臣。忠世の弟。通称・彦左衛門。兄・忠世に従い、各地を転戦して武功を挙げ、関東移封で忠世が小田原・4万5千石を拝領すると、3千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道を進んだが、上田の真田昌幸に翻弄され秀忠と共に本戦に遅参した。江戸時代に入り、忠世の跡を継いだ甥・忠隣が政争に敗れ改易されると、連座して改易となった。だが、すぐに秀忠に召しだされて千石の旗本ととして復帰した。晩年には『三河物語』を執筆しており、徳川贔屓が指摘されているものの、貴重な史料となっている。
大久保忠隣 おおくぼ ただちか (1553~1628) 徳川家
徳川家臣。忠世の長男。父に従って戦功を挙げ、関東移封の際には父とは別に2万石を与えられた。父が亡くなると遺領の小田原4万5千石も引き継ぎ、合わせて6万5千石を得た。のちに徳川秀忠の側近となり、秀忠が将軍となると老中となって政務を担うようになる。しかし1611年に期待していた嫡男・忠常に先立たれると政務を疎かにすることが増え家康の不興を買うこともあり、その権勢に陰りが見え始める。そんななか1614年に突如改易となる。改易の理由は政敵である本多正信、正純親子の謀略ともいわれるが諸説ある。しかし、大久保一族の功績の大きさから嫡孫の忠職は家督を継ぐことを許され、忠職の養子で従弟・忠朝の代に大久保家は小田原藩主に復帰した。
大久保忠世 おおくぼ ただよ (1532~1594) 徳川家
徳川家臣。松平・徳川家最古参の譜代のひとつ・大久保家の支流の生まれ。大久保一族は譜代家臣の中でも忠義に厚く、三河一向一揆の時も一族内から家康に背くものが一人もいなかったといわれる。その中でも忠世は戦上手、人格者として知られ、長篠の戦いではその奮戦ぶりを織田信長に称賛され、一向一揆で家康に背いた本多正信ら多くの武将の帰参にも仲介役として貢献している。1585年の第一次・上田城の戦いでは真田昌幸に敗れはするものの、それを上回る多くの功績から関東移封の際には小田原4万5千石を与えられた。
大久保長安 おおくぼ ながやす (1545~1613) 徳川家
徳川家臣。もとは甲斐武田家臣だったが、武田家滅亡後に徳川家康に仕官した。大久保姓は、大久保忠隣の与力となった時に与えられたもので、徳川譜代・大久保家の出身ではない。金山開発や経理の才に優れていたため重用され、関ヶ原の戦い後に家康の六男・松平忠輝の附家老となる。その後も様々な奉行を兼任して全国の金銀山を統括し絶大な権勢を誇った。しかし、死後ほどなくして金銀山統括の権限を利用した不正蓄財が発覚。長安の男児7人全員が切腹、娘たちが嫁いだ大名家も改易と厳しい処罰が下された(大久保長安事件)。
大須賀康高 おおすが やすたか (1526~1589) 徳川家
徳川家臣。徳川四天王のひとり・榊原康政の舅。三河奉行をつとめた後、遠江馬伏塚城に入って武田勝頼に備えた。1581年、高天神城の戦いで功があり、翌82年に横須賀城主となる。小牧・長久手の戦いでは康政と共に先鋒として出陣し、三好信吉(のちの羽柴秀次)を破るが、堀秀政の反撃を受けた。跡継ぎがいなかったため、康政の長男・忠政を養子に迎えて跡取りとするが、1615年に榊原康勝(康政三男)が亡くなり、榊原家が断絶の危機を迎えると、忠政の子・忠次が榊原家を継ぐことになり大須賀家は断絶した。
奥平信昌 おくだいら のぶまさ (1555~1615) 徳川家
徳川家臣。奥平家は、はじめ今川家に仕えていたが、桶狭間の戦い後、今川家が衰退してからは、めまぐるしく変わる状況に応じて松平家、武田家と主家を変えていた。武田信玄の死後、父より家督を譲られた信昌は、再び徳川家(松平より改名)に従うこと決め、武田家から奪い取ったばかりの長篠城に配された。1575年、長篠の戦いで、武田勝頼率いる1万5千の大軍を相手に5百の兵で城に立て籠もって奮戦。織田信長・徳川家康の援軍到着まで城を守りきって織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献した。戦後、その功で家康の娘・亀姫を娶り、以後、直系の子孫は松平姓を名乗っている。関ヶ原の戦い後には京都所司代をつとめており、その任期中に石田三成と共に家康排斥を画策した安国寺恵瓊を捕らえた。
鳥居強右衛門 とりい すねえもん (1540~1575) 奥平家
奥平家臣。諱は勝商。1575年、武田勝頼1万五千の兵に長篠城を包囲されると、援軍を要請するために囲みを突破して岡崎城へ赴いた。岡崎城で織田信長と徳川家康に謁見して援軍の約束を取り付けると、味方を鼓舞するために、そのまま立ち返るが、武田軍に捕縛された。「城に援軍は来ない降伏せよ」と伝えれば厚遇すると勝頼に言われ承諾するが、城の前に引き出されると「援軍は必ず来る」と伝えたため殺された。
久能(久野)宗能 くのう むねよし (1527~1609) 徳川家
遠江・久野城主。兄が今川方として参加した桶狭間の戦いで討死したため、家督を継いだ。家督継承後も今川氏真に仕えたが、徳川家康が攻めてくると、徳川家臣・高力清長の説得で降伏した。その後、武田家との戦いで活躍し、家康が関東移封となると、下総佐倉に1万3千石を拝領した。一時、家督を譲った子・宗朝の不祥事で久能家は改易処分となるが、関ヶ原の戦い後に再び8千5百石で久野城主に復帰した。
高力清長 こうりき きよなが (1530~1608) 徳川家
徳川家臣。三河三奉行のひとり。家康の父・広忠の代から仕えはじめ、人質として駿府へ赴いた家康に同行した。三河一向一揆の際には仏像や経巻を保護して紛失を防いだことから「仏高力」と呼ばれた。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、戦働きでも活躍したが、それを上回る行政手腕の持ち主で、聚楽第造営の普請奉行や小田原征伐の際には交渉役としても活躍した。思慮深く正直者で本来自分の収益としても咎められない預け地1万石の年貢を一度も手につけることなく江戸に送ったり、軍船の建造で余った黄金を素直に返上している。そうした純朴実直な性分を家康に生涯愛され、関ヶ原の戦い後に隠居してからも平穏な余生を送り79年の天寿を全うした。
近藤康用 こんどう やすもち (1517~1588) 徳川家
徳川家臣。井伊谷三人衆のひとり。初めは今川義元に仕えていたが、義元が桶狭間の戦いで討死して今川家が衰退し始めると、菅沼忠久の誘いに乗って徳川家康に従った。井伊家臣でありながら井伊谷を横領した小野政次の討伐などで活躍するが、老齢と長年の戦働きで足が不自由だったため、家康が本格的に遠江攻めを始めると、子・秀用を従軍させた。
酒井重忠 さかい しげただ (1549~1617) 徳川家
徳川家臣・正親の子。幼いころから家康に仕え、1569年の遠江掛川城攻め、1570年の姉川の戦いなど家康の主だった戦に多く参戦して武功を挙げた。1576年に父・正親が亡くなり、家督を継いで西尾城主となる。本能寺の変の時は留守を任されており、家康の伊賀越えには同行してないが、伊勢白子で家康を船で出迎え賞された。その時、船で使った船印を、のちに馬印にしたといわれる。関東移封の際には武蔵川越1万石を拝領する。本戦に参加した関ヶ原の戦いの後は上野厩橋に3万3千石を得た。死後、家督を継いだ子の忠世は2代将軍・秀忠、3代・家光に仕え、江戸幕府の老中、大老をつとめた。
酒井忠世 さかい ただよ (1572~1636) 徳川家
徳川家臣。重忠の子。徳川家康の関東移封後に家康の三男・秀忠付となり家老職となった。関ヶ原の戦いでは秀忠に従い本戦に遅参したが、秀忠が家康から将軍職を譲られると老中の首座となった。大坂の陣でも秀忠に従い、その後も秀忠の子・家光の傅役をつとめるなど順調に出世し12万石を領した。秀忠隠居後も家光の老中をつとめたが、中風を患い療養に専念。その後、復帰したが家臣たちを連れて移った江戸城西の丸を焼失させてしまい失脚。のち赦免されるも政治の中枢からは遠ざけられ大老に就任して数日で亡くった。
酒井忠次 さかい ただつぐ (1527~1596) 徳川家
徳川家臣。徳川四天王の筆頭。正室に家康の祖父・清康の娘を迎えているため、家康の義叔父にあたる。家康が今川家の人質として駿府へ赴いた時も同行して苦楽を共にした。家康が今川家から独立し三河統一を果たすと東三河筆頭となる。軍略に優れ、長篠の戦いの時には武田軍の背後にあった鳶巣山砦の強襲を進言して織田信長の称賛をうけ、自身でこれを決行し、戦いの勝利に大きく貢献した。有名な汚点として、家康の長男・信康の武田家内通の疑いを弁明できず、信康を切腹に追いやってしまった築山殿事件があるが、近年では事件後も家康に重用され、小牧長久手の戦いなどでも活躍していることから、家康と信康の対立を解消するためにあえて汚名をきたという見方もされている。1588年に家督を子・家次に譲って隠居。96年に隠居先の京都で亡くなった。
酒井家次 さかい いえつぐ (1564~1618) 徳川家
徳川家臣。徳川四天王のひとり・酒井忠次の長男。1588年、父・忠次の隠居により家督を継いだ。家康が関東へ移封となると、下総国臼井に3万7千石を得るが、他の四天王たちが10万石以上を得たため、父・忠次が家康に抗議した話が残っている。関ヶ原では徳川秀忠に従って、中山道を進んでいたため、本戦には参加していないが、戦後には上野国高崎に5万石を得た。その後、大坂の陣に参加し、1616年に越後高田10万石を得た。
酒井忠利 さかい ただとし (1559~1627) 徳川家
徳川家臣。正親の子。重忠の弟。兄・重忠と共に家康に仕え、小牧・長久手の戦いなどで活躍した。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道を進んで、上田城の真田昌幸と戦ったが、城を落とすことはできなかった。戦後、駿河・田中城主となって一万石を拝領。その後、1万石を加増されて武蔵・川越藩2万石の藩主となった。
榊原康政 さかきばら やすまさ (1548~1606) 徳川家
徳川家臣。徳川三傑、徳川四天王のひとり。通称は小平太。同じ四天王の本多忠勝とは同い年で仲がよかったといわれる。冷静沈着で家康の信任厚く、武勇では忠勝に劣るが部隊の指揮能力は忠勝に勝るといわれた。そのため個人の武勇伝が多い忠勝に対して、康政は榊原隊としての活躍が多く、姉川の戦いでの側面攻撃、小牧・長久手の戦いでの奇襲攻撃など、その戦いの勝利を決定づける役目を多く果たしている。徳川秀忠付として参戦した関ヶ原の戦いでは上田城攻めに固執する秀忠を諫めるも聞き入れてもらえず決戦場に遅参する。秀忠に対する家康の怒りは相当なものだったが、康政の命を賭した謝罪で許され、秀忠に大いに感謝されたという。戦後、老中への就任と水戸への加増を打診されたが、関ヶ原での武功がないことや「老臣権を争うは亡国の兆し」の考えのもと両方を辞退し、関東移封以来の館林に戻り亡くなった。
榊原康勝 さかきばら やすかつ (1590~1615) 徳川家
徳川家臣。康政の三男。正室は加藤清正の娘。1606年、父・康政が亡くなると、長兄・忠政は大須賀康高の養子となって大須賀家の家督を継いでおり、次兄は早世していたため、上野国館林10万石の2代藩主となった。大坂冬の陣では佐竹義宣の窮地を救う活躍をし、夏の陣では、かつてより患っていた腫れ物が悪化して出血しながらも奮戦したという。しかし、それがもとで大坂から引き上げた京都で亡くなった。子に勝政がいたが、幼少で病身であったため、大須賀家より兄の子・忠次が戻り、榊原家の家督を継いだ。勝政の家系は、その後、旗本となり、宗家に二人の養子を出して榊原家の断絶を救っている。
菅沼定盈 すがぬま さだみつ (1542~1604) 徳川家
三河野田城主。初めは今川義元に仕えていたが、桶狭間の戦いで義元が討死して今川家が没落し始めると、徳川家康に属した。家康による遠江侵攻が始まると同族で井伊谷の井伊家に従っていた菅沼忠久の調略を成功させ、遠江統一に貢献する。武田信玄の西上作戦では、野田城に立て籠もって1ヶ月あまり耐えるが、降伏し捕らえられた。しかし、その直後に信玄は病死。人質交換で帰還し、その後、長篠の戦いで鳶巣山の奇襲隊に加わり活躍した。関ヶ原のときは、江戸留守居役をつとめた。
菅沼忠久 すがぬま ただひさ (?~1582) 徳川家
井伊谷三人衆のひとり。遠江引佐郡都田に地盤をもち、井伊谷の井伊家に従っていたが、桶狭間の戦い後、今川家が没落し始めると、徳川家臣となっていた同族で三河野田城主・菅沼定盈の誘いを受けて徳川家康に与した。のちに同じ井伊谷三人衆と呼ばれる近藤康用、鈴木重時の調略を担当し、井伊谷を横領した小野政次の討伐などで活躍。その後、井伊直政の家臣となるが、ほどなくして病死した。
鈴木重時 すずき しげとき (1528?~1569) 徳川家
井伊谷三人衆のひとり。はじめは今川義元に従い桶狭間の戦いにも参加したが、義元が討死して今川家が衰退し始めると、娘婿・菅沼忠久の誘いに乗って徳川家康に従った。井伊家臣でありながら井伊谷を横領した小野政次の討伐で活躍したが、今川方の大沢基胤が守る堀江城攻めで討死した。
戸田康長 とだ やすなが (1562~1633) 徳川家
徳川家臣。三河・田原郡に勢力を誇った戸田家の嫡流。正室は徳川家康の異父妹。他家出身者で初めて松平姓を与えられた。曽祖父・康光は竹千代(のちの徳川家康)を誘拐して織田信秀(信長の父)に引き渡したことで有名。康長の家系は康光の次男の家系で本来嫡流ではないが、この誘拐事件で嫡流が今川義元の討伐を受けて滅亡したため、嫡流となった。徳川家康に従って小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに参加、関ヶ原の戦いでは大垣城を攻めた。大坂冬の陣、夏の陣にも参戦し、1617年に信濃松本7万石を与えられた。
土井利勝 どい としかつ (1573~1644) 徳川家
徳川家臣。水野信元の庶子。徳川家康の母方の従弟にあたる。父・信元が武田家との内通の疑いで殺害されると、家康のはからいで土井利昌の養子となった。わずか7歳で家康の三男・秀忠の傅役のひとりに抜擢される。以後、秀忠の側近として関ヶ原の戦いに随行、1610年に秀忠付の老中に就任した。1615年の大坂の陣でも秀忠に随行し、翌16年に制定された武家諸法度にも携わり政治的手腕も発揮、1622年に本多正純が失脚すると幕府でも屈指の権力者となった(利勝による陰謀説あり)。秀忠に家光が生まれると酒井忠世と共に傅役に抜擢され、秀忠隠居後も家光のもとで辣腕を振るい、最終的には大老に就任して16万石の大名となった。
鳥居元忠 とりい もとただ (1539~1600) 徳川家
徳川家臣。家康より3歳年長で、家康(当時は竹千代)が今川家の人質になるために駿府へ赴いた際には小姓として同行した。家康の独立後は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、家康の主だった戦で戦功を挙げ、関東移封の際には下総矢作4万石を得て常陸の佐竹義宣の備えとなった。関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を誘うため、捨て石同然と知りながらも僅かな兵で伏見城の守りにつき、もくろみどおり三成が挙兵すると激しい籠城戦の末に討死、その忠節は「三河武士の鑑」と称された。戦後、家督を継いだ忠政は、元忠の戦功により陸奥磐城平10万石、さらに1622年には改易となった最上家に代わり、出羽山形22万石の藩主となった。
内藤信成 ないとう のぶなり (1546~1612) 徳川家
徳川家臣。幼いころから家康に仕える。1560年、桶狭間の戦いの時には家康に従って尾張丸根砦攻略に参加し、1572年の三方ヶ原の戦いでは殿をつとめて家康を無事に浜松城へ帰還させた。その後も長篠の戦い、小牧・長久手の戦いに参加して武功をたて、関東移封の際には伊豆韮山1万石を拝領した。関ヶ原では本戦に参加はしていないが、戦後、駿河府中4万石を拝領する。1606年、家康の駿府入りに際して近江長浜4万石へ転封となり同地で没した。
夏目吉信 なつめ よしのぶ (1518~1572) 徳川家
徳川家臣。正しい名は広次とも。桶狭間の戦い後、今川家から独立したばかりの家康に従って活躍した。三河一向一揆のときは一揆側についたが、のちに許され、その後は忠義を尽くして働いた。三方ヶ原の戦いでは、浜松城の留守居だったが、家康の危機を知ると、救援に駆けつけて家康を逃し、そのあと家康の退却時間を稼ぐために自らを家康と名乗って武田軍を引きつけ討死した。明治時代に活躍した文豪・夏目漱石は後裔と称している。
成瀬正成 なるせ まさなり (1567~1625) 徳川家
徳川家臣。幼少より家康の小姓として仕えた。小牧・長久手の戦い、小田原征伐などで活躍。関ヶ原の戦いでは使番をつとめた。江戸に幕府が開かれると、本多正純、安藤直次らと共に家康の側近となり、幕政の中枢に参与した。正純、直次とは大坂冬の陣の和睦後にも、家康の名代として大坂城の総掘の埋め立てを指揮するなど行動を共にした。1611年、尾張藩主・徳川義直の付家老・平岩親吉が跡継ぎなく亡くなると、家康に請われて義直の付家老となり犬山城を与えられた。以後、成瀬家は代々、尾張藩の付家老として仕えた。
服部半蔵 はっとり はんぞう (1542~1596) 徳川家
徳川家臣。徳川家康に仕えた隠密頭。諱は正成。伊賀・甲賀者を率いて諜報活動や槍働きで活躍し「鬼の半蔵」の異名をとった。本能寺の変の時、堺に滞在していて命の危機にさらされた家康を先導、伊賀・甲賀の人脈をいかして「伊賀越え」を敢行し、家康を無事三河へ帰還させた。家康の長男・信康が武田家との内通を疑われ切腹となった時、介錯役となるが斬ることができず、同行した天方通綱が手を下した。それを聞いた家康は「鬼の半蔵も主君の首は斬れなかったか」と感慨深く語ったという逸話がある。
平岩親吉 ひらいわ ちかよし (1542~1611) 徳川家
徳川家臣。家康と同い年であったことから幼少から側に仕え、織田、今川人質時代を共に過ごした。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いで戦功をたて、その信頼の厚さから家康の嫡男・信康の傅役をつとめた。しかし、1579年、信康が武田家との内通を疑われて切腹となると、責任を感じ謹慎してしまう。その後、家康の再三にわたる説得を受けて再出仕し、天正壬午の乱後、家康が甲斐・信濃を得ると甲斐郡代となり、関東移封では、上野国厩橋3万3千石を得た。関ヶ原の戦い後、尾張藩主・徳川義直の付家老となるが、跡継ぎに恵まれず、1611年に亡くなると平岩家は断絶した。
保科正光 ほしな まさみつ (1561~1531) 徳川家
徳川家臣。正直の子。武田家臣で「槍弾正」と謳われた保科正俊の孫にあたる。武田家臣であったが、武田家が滅亡すると父と共に徳川家康に仕え、各地を転戦し武功を挙げた。関ヶ原の戦いでは遠江浜松城の守備を任され、戦後は初代高遠藩主となって2万5千石を領有した。その後、大坂の陣にも参加。夏の陣では多くの首級を挙げたという。徳川秀忠の庶子・正之を養子に迎え跡取りとした。
本多重次 ほんだ しげつぐ (1529~1596) 徳川家
徳川家臣。松平清康、広忠、(徳川)家康と三代に仕えた譜代の重臣。剛直、果敢であったことから「鬼作佐」の異名をとった。若い頃の家康から絶対的な信頼を受け、与えた影響は計り知れないといわれる。勇猛な戦働きだけでなく、公平な判断力から高力清長、天野康景と共に三河三奉行のひとりとして行政面でも活躍したが、小牧・長久手の戦い後、家康が上洛するかわりに人質として岡崎に送られてきた豊臣秀吉の母・大政所を冷遇したことから蟄居閉門させられた。日本一短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」を書いた武将としても知られる。
本多忠勝 ほんだ ただかつ (1548~1610) 徳川家
徳川家臣。徳川三傑、徳川四天王のひとり。通称は平八郎。桶狭間の戦いの前哨戦・大高城の兵糧入れで初陣を果たして以来、最後の戦となった関ヶ原まで57度の合戦に参戦し、傷をひとつも負わなかったといわれる徳川家随一の猛将。その武勇は織田信長も「花実兼備の良将」と激賞している。三方ヶ原の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは「家康に過ぎたるもの」と賞され、小牧・長久手の戦いでも数百の兵で4万近い秀吉軍の足止めをするなど武勇伝には事欠かない。関ヶ原の戦いは軍監として参戦し、決戦前には井伊直政と共に吉川広家を東軍につける工作でも活躍した。戦後は伊勢桑名に10万石を与えられ、さらに旧領・下総大多喜も5万石で次男・忠朝に与えられたが、戦乱の収束に伴い中央からは遠ざけられたといわれる。亡くなる数日前、小刀を扱っていた際に手元が狂い傷を負った。その傷を見て自分の死期を悟ったという逸話が残る。
<武田信玄近習・小杉左近の落書より>
家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八
<遺書より>
事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ
本多忠政 ほんだ ただまさ (1575~1631) 徳川家
徳川家臣。忠勝の嫡男。姉は、真田信之に嫁いだ小松姫。弟に忠朝がいる。小田原征伐で初陣を飾り、武蔵岩槻城攻めで活躍した。関ヶ原の戦いは、徳川秀忠に従って中山道を進み、義兄にあたる真田信之と共に西軍についた上田城の真田昌幸(信之の父)の説得にあたったが、一杯食わされ秀忠軍が決戦に遅参するきっかけとなってしまった。1609年、父・忠勝の隠居にともない桑名藩10万石の2代藩主となる。大坂冬の陣では大坂城の堀の埋め立てを担当、夏の陣では毛利勝永に敗れるも、その他の軍功もあり、1617年に姫路15万石の藩主となった。
本多忠朝 ほんだ ただとも (1582~1615) 徳川家
徳川家臣。忠勝の次男。兄に忠政、姉に小松姫がいる。父・忠勝に劣らぬ勇将と伝わる。関ヶ原の戦いを父と共に参戦、戦後、父が伊勢桑名10万石の藩主となると、父の旧領・上総大多喜5万石を得た。大坂冬の陣では、それなりの活躍はするものの、酒のために不覚をとり、家康の叱責を受ける。その汚名を晴らすべく、大阪夏の陣で奮戦したが、毛利勝永の猛攻にあい討死した。難破して領内に上陸したスペイン船の乗組員を献身的に対応した美談が残っている。
本多忠高 ほんだ ただたか (1526?~1549) 徳川家
松平(徳川)譜代。忠勝の父。松平清康、広忠の二代にわたって仕えた。清康が守山崩れで亡くなり、広忠が松平家の当主となると、松平家は今川義元に属することになるが、今川家から派遣されてきた太源雪斎に従って広忠と共に尾張の織田信秀(信長の父)を小豆坂の戦いで破るなど武功を挙げた。しかし、広忠暗殺後、混乱した三河の安定をはかるために出陣した第三次安城合戦で討死した。
本多忠真 ほんだ ただざね (1531?~1573) 徳川家
徳川家臣。忠高の弟。忠勝の叔父。兄・忠高が第三次安城合戦で討死すると、まだ幼かった忠高の子・忠勝を保護し、読み書きや武士の心得を教えて徳川随一の勇将に育て上げた。忠勝の初陣となった桶狭間の戦いをはじめ、忠勝の補佐役として各地を転戦して活躍したが、武田信玄に惨敗した三方原の戦いで殿(しんがり)をつとめ討死した。その際、旗指物を左右に突き刺し、「ここからは一歩も退かぬ」と奮戦したと伝わる。
本多正純 ほんだ まさずみ (1565~1637) 徳川家
徳川家臣。正信の長男。若いころから徳川家康の側近くに仕えて外交、調略で活躍し、幕府開設後も大御所となった家康のもとで辣腕を振るった。人の恨みを買いやすい職であったことから父・正信に過分な加増を受けて余計な恨みを買わないよう遺言されていたが、それを聞かず、正信死後に宇都宮15万5千石の大封を得る(正純は固辞していたとも)。そのため徳川二代将軍・秀忠の側近、土井利勝や酒井忠世から妬まれ、秀忠を釣り天井で暗殺しようと企んだ、いわゆる「宇都宮釣天井事件」を捏造され改易となった。その後、父・正信の功績から改めて出羽国由利に5万5千石を与えるという命が下ったが、正純は矜持からこれを固辞し、面目を失った秀忠の怒りをかって佐竹義宣の預かりとなり出羽国由利への流罪となり同地で没した。
本多正信 ほんだ まさのぶ (1538~1616) 徳川家
徳川家臣。徳川家康から「友」と呼ばれた名参謀。若いころより家康に仕えていたが、三河一向一揆で家康に背いて一揆側についたため、鎮圧後に一時三河を追われた。放浪中は松永久秀に仕えたり、加賀の一向一揆に加わっていたといわれる。正確な時期は分かっていないが、大久保忠世の仲介により帰参を果たし、重臣・石川数正の出奔後あたりから才覚が認められ重用されるようになった。江戸に幕府が開かれると自身は江戸の秀忠付に、子の正純が駿府の家康付となったことで幕府の中枢を担うようになり、「天下の謀臣」といわれるほどの権勢を誇った。しかし、所領は2万2千石と少なく、これは恨みを買う立場であることを理解していたためにあえて加増を拒んでいたからという。1616年、家康が亡くなると、家督を子の正純に譲って一切の政務から身を引き、家康の跡を追うように亡くなった。
松平信一 まつだいら のぶかず (1539~1624) 徳川家
徳川家康の祖父・松平清康の従兄弟。早くから家康に仕え、三河一向一揆でも家康に従って勇戦し信頼された。織田信長の上洛戦では、援軍として派遣され、六角家の居城・観音寺城攻めで抜群の戦功を挙げて信長に激賞されている。長篠の戦い後には武田方の諏訪原城攻めでも活躍した。関ヶ原の戦いでは常陸の佐竹義宣の備えとして残り、戦後、常陸・土浦3万5千石を与えられた。
水野勝成 みずの かつなり (1564~1651) 徳川家
徳川家臣。忠重の子。勇猛であったが、粗暴な行いも多く、小牧・長久手の戦いに織田信雄のもとで参加した際、不行状を父に密告した家臣を殺害して勘当された。以後は各地を転々とし、仙石秀久、豊臣秀吉、佐々成政、黒田孝高(官兵衛)、小西行長、加藤清正、立花宗茂などに仕えた。秀吉が亡くなると徳川家康に仕えて父・忠重と和解する。忠重が関ヶ原の戦い直前に殺害されると家督を継いで大垣城攻めに参加した。その後、大坂の陣にも参加して後藤基次と戦うなど武功を挙げ、大和郡山6万石を拝領した。広島城の福島正則が改易されると、正則の所領の一部であった備後福山10万石を与えられた。晩年には島原の乱にも参加した。
渡辺守綱 わたなべ もりつな (1542~1620) 徳川家
徳川家臣。通称は半蔵。武勇に優れ、その勇猛ぶりから「槍の半蔵」の異名をとった。源頼光の家臣で頼光四天王の筆頭・渡辺綱の後裔という。三河一向一揆では家康に背いて一揆側につくが、鎮圧後に許され帰参してからは各地で戦功を挙げ、長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・勘蔵を討ち取った。1613年に家康の命で、尾張徳川家の初代藩主・義直(家康の九男)の後見人となり、各地の所領合わせて1万4千石を得た。義直の初陣となった大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも後見人として出陣し、家康死後も義直の補佐として活躍した。